ジカセイノプリン

memento morioka

9/10(日) Twitterで見たプリキュアの新しい子が可愛かった

 

最近の日記が軒並み荒れていたので少し内省し、また淡々とつけていこうと思う。

 

…このまえちらっとネットで見かけた内容に、混み合ったこととか頭の中でごちゃついてることをそのままネット上に公開すると、他人によく思われないというよりも自分の中で暗示のようになってどん詰まりになりかねないのでやめた方がいい、という内容を見てなるほどなぁと思った。

 

私は割と意識的にポジティブにしてきたしなった方だと思っていたのだが、実際のところ根本的な問題に蓋をして上辺だけの改善しかできていなかったのだな、と今回思った。

 

 

で、その根本的なとこというのが、何か新しいことをしようとする時まず「できるわけがない」と思ってしまうことだ。

というか、思ってしまうというか事実だと確信しているので何を言われても「いや実際できてへんし…」と思う。これを直していかないといけないのだと今回のことで分かった。

 

いつからかは分からないけどもう本当にずっと長い間頭を抱えている問題だ。なんとかしたい。

なんとかしないと社会に出られないと思う。

 

去年も就活しなきゃ!とずっとずっとずっと思ってたけど、結局何にも出来なくて、そのまま9ヶ月経ってたら就活シーズンが終わってた。

 

…。

↑について、大多数の人からしたら「何を言っているんだ?」と思われるかもしれないが、マジなのでそういう傾向性がある人は気をつけた方がいい。

そういう傾向性がある、というのが嫌なんだけどさ。今もそう。

 

なんか、やらなきゃって思うのは思ってるんだけど、それと実際に「やる」とか「やらないと困る」てことが結びつかないんだよな。

なんでできないかなんて、こっちが知りたい。困ってるんだもの。

 

今思えば当時の気分はさながらポルナレフだった。

 

 

 

…。

あ、こういうのをネットに書かない方がいいのか?

まあいいや。今回だけ。

 

さて、日記。

 

日記長いとめんどくさくなるので字数制限つけようかな。長くても800字。

 

 

 

 

起床。昨日も飲み会だった。バイト先の友達と。

 

疲れがたまっていたのか帰ってきてお風呂にも入れず横になって、3時間寝て目が覚め、更に2時間寝て目が覚め、

そこでようやく着替えてお水飲んで布団をちゃんと敷いてポケモンスリープセットして寝た。白目。

しっかり寝たが、まったくそんな気がせず、やるせない。

まあそんな日もあるか。

 

目が覚める、が、布団から4時間出られなかった。

朝昼抜きだとヤバそうなのでなんとかして梨とイチジクを食べる。

そのあとまた2時間横になってしまった。

まあそんな日も…あるか…。

 

夜になって流石になぁと思うものの体がだるくて動けない。酒飲むともう次の日はダメになるのかな?

 

なんとか外に出ようと、近くの中華で食事。

桂に住んでる某先輩がわざわざこちらまで食べに来るほど美味しいと評価してたので通うことにする。

めちゃくちゃ美味しかったが、今日初めてのまともな食事で胃がびっくりしている。

 

本当はそのまま外で勉強してくる予定だったのだが、帰宅。なんかやる気出なかった。

 

…この場合のやる気って自分で管理できるもんなんでしょうかね。私はできないと思ってるんですが、みんなはそうでもないんかな。

一つわかるのは、これを「できないもの」だと思うと、一気にいろいろ難しくなるなということだけである。

 

なんか今日もまた書きすぎる。明日は300字にしよう。

 

家でさらに1時間横に。雨のせいで少し頭痛も。

そのあと散歩、少し運動、また横、風呂、日記書いて寝る。

 

 

今日マジでダメな日だったな。

無為に横になる時間が多かった。何か疲れたことがあったわけでもない。

 

ただ、横になっている時も、どうしようもないと思うことが多い。

怠けだと思われても仕方ないんかなぁとも、やっぱり思う。

 

…。

胃腸を自分のコントロールで具合悪くするように操れる人間がそうそういないから、体調の不良は病気だと認められるのだろうけど、精神の不調はともすれば本当はやれるけどサボったり具合が悪いふりをしたりすることができるから、もしくは多少不調になっても自分のやる気などによってコントロールすることでいくらでも融通が効くことがあるから、不調が認められにくいんだろうなぁと思った。

 

もしこの世界の大半の人が自分の意思で鼻血を出したりお腹下したり風邪を引いたり骨折したり癌になったりはたまたそれらを治せたりできるなんてことがあったなら、きっとそこではそれらの症状を患った人に対して「いや、それ自分が望んだんじゃないの?」とか「早く治しなよ、本当はやればできるんでしょ?」と、冷ややかな視線を向けられたり圧力をかけられていたんじゃないかなぁと思う。

それは今の世の中で精神的な不調を患う人に対して向けられる目線と、ちょうど似通ったものになるのではないか、と思う。

 

コントロールできる人が世界のどこかにどれくらいいるかいないかということだけで、その人の症状の重さがどれほどかとか、その「当人」がコントロールできる人かどうかとかの重要なファクターが見落とされてないですかねとは思う。

まあでも、できる人がいるなら、しかも大多数なら、あなたもできるやろ!と思うことはわりと合理的だと思うし、こういうネガティブな側面だと悪く聞こえるがポジティブな場面だと往々にして成功を信じる力強い根拠にもなりうる。

 

例えば、みんな自転車になんとかして乗れてるわけだから私だけできない理由はない、頑張ろう、という場面とか。

みんなはできてるけどそれが私もできる証拠にはならないじゃん!と完全に思っていたら、私は自転車に乗ることさえ諦めていたかもしれない。

 

 

うーん。何が言いたかったんだっけ。

コントロールできた例があるものに対してはやっぱり責任を問いたくなるもので、責任を問えるものだからこそ選ぶ選ばないの個人の自律が評価されるんかな、ってことかなぁ。

 

もし最初から何にも選ぶことができないものばかりなら、こうも責任を問われなかったんだと思う。

逆に言えば技術の発展でそれまで「選ぶ」ことが不可能だったものがどんどん可能になってきているから、現代は特に自律や選択の正解が何かを問われる場面が増えてきているんだろうなぁとか。

デザイナーチャイルドとかさ。

 

 

あ、また話が大きくなりすぎる。

寝よう。おやすみ。

 

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↑散歩中に撮った橋の写真。

灯籠がきれい。