ジカセイノプリン

memento morioka

7/26(水) Pluralism

う。つかれた。

 

あとめちゃくちゃムカつくことがあった。ムカつく、というのも不思議な話だけれど。

 

自分に対してめちゃくちゃ失礼な態度をとってきた人間が「いいことあった😄」みたいな顔してると、腹が立つんだなあ。みつお。

 

 

しかし、考えてみれば不思議な話である。他人が嬉しく思うことが私にとって不快ということで、つまりは私は嫌いな人間が不幸であって欲しいと思っているのだろう。

でも不幸であっても嬉しい!とはならない。幸せであるとムカつくだけ。というとこの選好はマイナス方向にしか働かないshitな選好である。shitな外的選好である。

 

人は自ら不幸になろうとする方が全体として見れば少ないのだから、きっとなかなかこの選好は役に立たないだろう。悪いことがありました…と報告するよりもいいことがあった!と報告する方が多いだろうし、そんな数少ない悪い報告を今か今かと待って、しかも別に快は増えないなんて。それよりもはるかに多くの頻度で訪れる良い報告を聞いてイライラをつのらせ結果として不快の量がとんでもなくなることが見えている。

というかそもそもこういう人間観を出すだけで徳がなさすぎると呆れられることもあるのでやめた方が良い。

それに、そもそもムカつく人間にずっと心のどこかを囚われているのもバカな話なのである。しかしなかなかこの選好を変えることができないというところが、この話の難点なのである。あわやあわや。

 

 

この話、何度もしてしまっているので、今日はもう少し先に進めようと思う。

 

 

 

まあこの話とも当たらずとも遠からずといった程度に少しだけ関連するのだが、最近ある本を読んでいて気づいたことがある。

 

私は誤った道徳教育の結果として、ある非常に良くない傾向性というか選好を身につけてしまっているようだ。詳細に書いたりはしないけど、端的に書くと外に目が行きすぎている。自我がない場面が多く、比較する他者との優劣において自分の快不快を測っているところが多々ある。

 

これさまざまな点において長期的に見ればデメリットしかないので結論としてはやめた方が良い。というより、この選好を手放した方が良い。まさにここが今日書きたいことである。

 

 

最近は「選好を意図的に手放せるのか」という問いがめちゃくちゃ気になっている。特に生まれ育った環境や学校での教育による影響、つまりは長らく親しんできたコミュニティ内の価値観を捨てようと思って捨てられるか、コントロール下なのか、という問いである。

もしコントロール不可能なら、不合理な選好を不適切な環境や教育の末に身につけてしまった人には非難正当性はないだろうし、もしコントロール可能なら不合理な選好を身につけておりかつ修正なり破棄なりしていない個人に対してある程度の責任を帰せることができるだろう。まあその選好がどれほど変えなければならないのかにもよるだろうけど(例えば他人に害を与える傾向性のある選好とか。理由もなく嘘をつくことを好むとか、殺人願望とか。)。

 

一般に、もともと慣れ親しんできた価値観と対立しない限りにおいてはこのような問いは問題にならないだろう。でもそうじゃなくなった場合、それは周囲の変化によるものか(例えば男尊女卑の社会から男女平等が求められる社会へと徐々に変わってきたこととか)、自分が変革を求められる時か(今の私みたいに外敵選好捨てなきゃ!てなってるときとか。今まで騙し騙し仕方ないよね…てやってきたけど変えざるを得ない状況になった時とかね)、どちらもあり得るだろうけどそういう状況において私たちの前にこの問い、つまり「慣れ親しんできた価値観を捨てようと思って捨てられるのか」という問いは、きっと常に立ちはだかるだろう。

 

昨日の適応選好形成もこの最近の興味から出た話である(貧乏人の価値観とか、あとジェンダーでもよく見ると思う。ルッキズム良くないと思ってるけど自分もその中でぬくぬく生きちゃってるし、アイドル産業も依然として大盛況である。Twitterはえちえち垢が絶えない)。

特に現代は特に価値多元主義とも言われるリベラリズム社会である。唯一絶対的な善の構想が理想とされるのではなく、個々人がそれぞれれにもつ善の構想が存在するようになってきた(厳密にいうとそれじゃダメだよ!っていうコミュニタリアニズムというのがあるわけだけど)。これまで支配的であった価値観が次々と審議にかけられ、そのうちのいくつかはただの偏見だとか、根拠のない迷妄だとかが判明してきている(今までの人種差別反対運動とか見てもそうだろうと思う。書くのも嫌だけど、かつて本当に「黒人は白人と同じようには痛みを感じない」と思われていた時代があったように、今の私たちからしたらイヤイヤ…と思うが当時の人々には当然と思われていたことがいくつもある)。

 

日々ニュースで話題になっている数々の問題を経て、そのうち私たちは今持っている価値観や選好をある程度無理してでも「変えなければならない」時を迎えるかもしれない。

その時に「いやです」か「むりです」なのかは大きな違いだろうし、「いやです」が果たして許されるのかも大問題だろう。

 

例えばさっきのジェンダーの問題をめぐって、最終的に私たちが今持っている規範をめちゃくちゃに変えなければならなくなる時が来たら、その時にまた向き合わなきゃいけなくなると思うんだよな、この問いは。ルッキズム、もし誤っていて、直ちに捨てなければならないとなったとき、捨てようと思って捨てられますか?って話。

今も同性婚の話でずっと揉めてるけど、あれも「一夫一妻の異性婚」ていう既存の価値観に慣れ親しんできたから捨てにくくなってる人たちVS結婚の自由の方が権利として重要だ!になってるように思う。前者は「異性婚は伝統的な日本の家族の形。変えたら従来の伝統がなくなり絆が失われる」云々と言い、後者は「絆とか伝統とか道徳とか以前にいま目の前にいる人間の尊厳と権利守らんでどないすんねん」云々と言う。

あまりにも雑な理解で申し訳ない上に私は同性婚を認めない理由がわからない(つまり賛成)なのでバイアスもかかった書き方になっていることを断っておくが、これも結局従来の価値観が揺さぶられている例の一つだと思う。し、もし同性婚が認められ、もはや異性婚の正当性を振りかざしたり同性婚を否定することが不当になった時、同性婚反対勢はその価値観の変更を迫られるだろう。さて果たして彼らは変えられるのだろうか。変える義務があるだろうか。義務というからには「変えようと思ったら変えれる」みたいな認識がありそうだが、変えられないものだとしたらどうか。責任を問えるのだろうか?

また、無差別殺人をしてしまった人たちに対して「ヤバい」「頭おかしい」「不道徳だ」「そんな価値観持ってるなんてやばい」という非難を見た時に、果たしてそんなことすぐに言ってええんかなあとも思う。もし価値観の変更が自力では不可能だとなったら、彼らの責任は問えなくなる。だから彼らには価値観を変える義務があった、ないし変えることができたのに変えなかったということなるんだろうけど、そういう非難を飛ばす奴はあれこれと自分が長年親しんできた価値観を変えられるんですかいな、と思う。

特にさっきのジェンダー関連の話を見てて、特にそう思う。

自分が逆の立場なら、難しいんかもしれんとか、思わんのだろうか。想像できないんだろうか。想像した上で「自分はできる」と断言してしまうのだろうか。本当にそれは「その人の立場」になれたうえでの発言だろうか。

 

 

 

…。

この前、弊学の某哲学科の教授と某NTTがコラボ(というと怒られるかもしれないが)して、「京都哲学研究所」なるものができたらしい。ニュースで見た方もいるかもしれない。

 

その際の謳い文句は

「価値多層社会の実現に必要な哲学思想の構築を目指し(一般社団法人 京都哲学研究所を設立)」

だった。

価値多層社会の実現に必要な哲学思想の構築を目指し一般社団法人 京都哲学研究所を設立 | ニュースリリース | NTT

 

何?価値多層社会て。価値多元主義の話か?と最初は思った。あとなぜこの話が倫理学ではなく哲学の教授のところにいったのかがもうよくわからないのだが(そこまでの認識がそもそも世間にはないのかもしれない)。

 

それはさておき、価値多層社会である(多元か多層かは置いておくとして)。繰り返すけれど既存の価値観が改めて振るいにかけられる中で新たな価値観がたくさん生まれつつあり、それらは統合や上下関係によって結びつけられるというよりも恐らく「どれもだいじだよね☺️」ということになっていくんだろう。

というようなことをきっとこのスローガンは言いたいのではないだろうかと思うのだが(であればやはり「層」ではなく「元」だろと思うが。層だとあからさまに上下というか次元の違いを感じとってしまう。もしかしたらその意味で「層」を使っており、私の読みが完全に外れている可能性もある)。現代リベラリズムの話を今日読んだので、こんなふうに思う。

 

だとすれば尚更これから、あれこれの価値観の変更を迫られることも多くなってくるんだろうと思う。その中には簡単に変えることができるものや自然と変わって困難を覚えないものもあれば、歯軋りしてのたうち回ってやっとのことで変えられたり、そもそも変えることが不可能だと判断されたりするようなものもあるかもしれない。

これからもっと「何を認めるべきか」について考えなければならない、そんな時代が来ると思う。その時に再び「そもそも価値観って自分の意思で変えられるんですか」という問いに対する答えが、Yesなのか、Noなのかは需要な要素になってくると思うのだ。Yesだとしてもかなり難しいので政府の援助が必要であるということになったり、Noなのでそもそも不寛容な価値観を身につけないように徹底的にリベラルで価値多層社会に見合った価値観を叩き込む「教育」を施すクソでかい政府が必要になったりするかもしれない。

分かんないしすぐに答えが出るかも答えがあるのかどうかもなかなかに回答むずかしー問いであると思うが、もうちょい考えなきゃなあと思う。

 

とかいうだけどこの話もう答え出たたりするんかな?してたら教えてください。ちゃんと学びたいと思います。何か意見があればください。

こんなとこまで読んでる人がいるんかなあとは思うが。

ということでフォームを↓。気が向いたらぜひに。

なにかひとこと

 

 

 

 

…というようなことを、実はリベラリズムではなくカントを読んで思ったの。新書だけどね。

やっぱりカントは偉大だなぁ。

 

Thank you, Deontology.

 

f:id:kapottsu:20230727001901j:image

↑久しぶりにうどんを食べた。

香川県民なのでうどんを食べることは義務。この価値観は変えられないかもしれないな。