ジカセイノプリン

memento morioka

12/5(火) 卒論

 

不完全!!

不細工もいいとこだ!!

だが今は!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これで良くないのでもっと頑張らねばなりません。

 

 

 

 

 

 

卒論の話です。

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

元ネタはこれです。

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えー、

卒論の中間発表(ということになっている)ものが本日終わりました。

 

 

 

 

 

 

…。

 

 

 

いやーーーーーーーーーーーーーーーーーー。

 

 

ボコボコでしたなぁ。

 

ボッコボコでした。

 

 

 

 

 

ボコボコになることが悪いことかどうかというと一概にそうだとは言えないというところですが、努力不足だとか力を入れきれなかったとかだと完全に良くないですね。

 

いやー、頑張ってなかったのかな。こういう評価が正確に自分でできないんだよな。

たぶん「頑張った」のハードルがすごく高くて、それ以外だと等しく「頑張ってない」になってしまっている気がする。

 

だからぶっちゃけどれだけあがいても納得できず、等しく「頑張れなかった」という評価しか自分につけてこなかったので、せめて自分が「頑張れなかった」のなかでどの辺なのかというのが見えない。

 

比較的頑張れてた方なのか、マジで手抜きしてたのかが自分でもわからん。どうやって判断したらいいんだろう。

 

 

 

まあ、どれだけ頑張ってみても到底クリアできんような課題設定されて、それ超えられん限り一律「不可」つけられたら(たとえば95点が合格ラインで、それ以下は不可だとしても50点!67点!85点!とかせめてグラデーションがあればまだマシだが)やる気は出んよな、と思う。

し、それを自分にもう長いことやってきちゃったんだろうな。

 

 

 

これは悩み事なんだけれど、今までの人生で何か一つでも「頑張れたな」って思えたことが本当に一つもない(が、客観的に見るとまあまあ頑張ってるやんと言われることが多い)ので、やや認知がおかしいのだと思う。相談室の先生にもよく指摘される。

 

じゃあ「頑張った」ていうのはどういう時かというイメージを言えば、毎日朝起きてから夜寝るまでぶっ通しでやって、生活を送る最低限の時間以外は全て注ぎ込まないと「頑張った」って言えないな、て感じ。

し、それでも今度は「寝る時間惜しんでてもできたよな」とか思いそうだから、多分この考え方のままだと「頑張れたな」と認めることは一生できない。

 

 

すごくしんどいからなんとかして変えたいものだな。自分の考え方なのに自分の力でなんとかできないの、すごくもどかしいし悔しい。

 

 

 

 

 

 

さておき、こういう内省そろそろ自分で書いてて生産性が無さすぎてだるくなって来たので、本題。

 

 

 

卒論が大変な気がしてきた。

書けるんかなこれ。焦り。

 

 

 

今日の質疑で、なんか自分は色々とわかってないんだろうな、というのだけやんわりと思った。あーそういう捉え方するんか、なんで知らんかったんやろ、みたいな。

 

自分の不勉強もさることながら、なんというか博士以上の人が持ってるセンスみたいなものを感じた。たぶんそれは才能とかそういう類じゃなくて、膨大な努力と経験に裏付けられたものというイメージ。

もちろん知識の量自体にも感服するけど、それ以外のなんか「この話は大体(知らないとしてもおそらく)こうよね」というのが分かってる感じのやつ。

 

いろいろ読んでけばなんとなくでも分かるようになってくるんだろうか。上手く言えないなー。

 

 

他にも、これは今気づいて致命的なんですが、論証というものが私はさっぱりわかってないんだろうな、と思った。

 

 

 

今の私の原稿の書き方は、

 

 

Aさんがこんなこと言ってます。

それについてはBさんもこんなこと言ってます。

なんかCさんがちょっと批評っぽいこと言ってるみたいです。

 

 

→全部書きました! この原稿は10分で読めます!

 いかがでしたか?

 

 

になってるし、レパートリーとしてこれしかない。

 

だけど諸先輩らのコメントを聞いている限り、目的をはっきりさせておいた方がいいんだろうなと思った。

 

この議論は何に使うのか、後ろの部分とどうか変わってくるのか、こことここの接続はうまくいってるの?とか、言われて確かにムムム…という感じだった。勉強になる。

 

 

あとは夕方、先生が少しお時間とってコメントをくださった。で、その目的あたりのことを少し気になったことを相談してみた。

というのも、正直なところ目的を書くこと自体を避けてたのだ。

 

より正確に言えば、この原稿ではパターナリズムを擁護します!否定します!みたいな部分は書きたくなかった。

というか書けないと思っていたから書かなかった。

 

そもそもその辺は論文全体に対して懐疑的なところで、研究続けていってはじめてこっちが正しかったとわかるはずなのに、なぜ決めうちでどっちか正しいかをまず決めてそれをひたすら擁護するなんて方に行くのか、と。

 

 

 

で、その話を先生にしたら、

 

それはそうで、研究続けること自体はどういうことが言えるかみたいなのを明らかにすることが目的だけど、とりあえず論文や原稿自体を出す時は「テーゼ」を用意しておくのが推奨されるよね、

 

とのことだった。

 

(たぶん。最近気づいたけど私のメモって相当機能してないのでいつも何も振り返ることなく記憶だけ頼りにしているんだなと今日メモ取りながら気づいた。今も先生の話思い出しながら書いてるから間違ってたら怖い。)

 

 

テーゼというのは、問いに対する答えの部分ぽい。先生の一つ前の御先生がよく言っていたらしい。

 

 

なるほど。

 

 

 

 

 

あと個人的に考えたことを書くのが憚られる、なにか思いついても先行研究で同じこと言ってるやつを何とか見つけてこないと書けないのだと思っていた。

 

これに対しても先生からは、まあ先行研究見つかればそれに越したことはないけど、まずは書いてみることも大事。もし先行研究あれば他の人が教えてくれるかもしれないし。といったことであった。

 

なるほど。

 

 

 

 

 

あとは、そうだなぁ。

覚えてるうちにいくつかメモっておかなきゃ。

 

…。

(本当にメモが機能しない。振り返ればええだけやん、と気軽に言われるが、振り返っても分からないからとにかく何回も書いて頭に入れるしかないんだよな。それで今まで乗り越えて来たんだし。

それじゃいつかこの先無理になるから、変えなきゃいけないのもそうなんけど。)

 

 

 

パターナリズムの問題は、福利と本人の決定が対立するという構造にあるんであって、自律を福利に組み込んで考えまーす!というのはむしろ構造がわかりにくくなる原因になってる。

 

問題は、実際問題パされた時に福利が向上するとしてもそれでええの?という疑問が(自律autonomyとな本人の決定の尊重respect)出てくることなんだろう。

で、Well-beingとその自律やら尊重やらを天秤にかけて、どっちが重くなりますかーみたいな話なんやっけか。これは授業後に先輩に聞いたあたりのこと。

今回取り扱ったRaiblyはその天秤のWell-beingがほんまにあるんか?みたいな話をしてるぽくて、もし仮にレイブリーが上手く言ってたとしても天秤にWell-beingが乗ります!以上のことは言え無さそう。

例えば他にコンリーはAutonomyってそんなに天秤なるほどな重さありまへんでっていう話をして、パの擁護を図った、みたいな感じがある。

 

うーん、この辺もちゃんと自分の言葉でまとめなおさないとな。

 

天秤がどちらに傾いたら、どの程度傾いたらパがいいことになるんだろう?

それともパが認められる理由や根拠は、そういう釣り合い以外のところにあるんだろうか。

 

 

 

 

 

あとは、可能世界みたいな話とか、物語(integrity的な?)とか、傾向性とか、効用の比較とか、理論と実践の話とか、いろいろ聞いたけど全部はやっぱり覚えられてないな。悔しい。

 

 

 

なんか記憶の仕方が間違えてる気がする…。もっと効率いい方法とか、みんなは上手くできるけど私だけ知らない何かがあるんじゃないか、と怯えている気がする。

 

最近はとかくずっと「なんか私は分からないけどどこかを間違えてる気がする」という気持ちが強い。

普通の人ならどうするんだろう、とよく思う。

大抵くやしさとこわさが伴う。

 

 

 

 

疲れた寝よう。明日起きてから頭スッキリさせてからまとめよう。そうしよう。