ジカセイノプリン

memento morioka

25/n

 

疲れ果てて、サボっていた日記を書いて取り戻すのに日数がかかってしまい、遅れています。

 

 

クッ…頭が弱い…。

 

 

 

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カメラロールを見返していたら出てきた、前の春の写真。

 

当時はあんまりやなーと思っていたけど、今見返すとこの写真かなり好きかもなぁ。1年もしない間に好みも変わるんだなぁ。

 

まだ冬ど真ん中だけど、でももう冬なんだよな、と最近よく思う。カメラロールやLINEの履歴をちらと見返すと、これ5月だったんだっけ?、これもう1年前?みたいなことが多い。

 

もうすぐ春が来て、あっという間にまた冬になるんだよな。

過去はいつも思っていたより遠くて、未来はいつも思っていたよりも近い。時間が経てば経つほどどんどんそうなっていっていってる。

 

 

怖いなぁ。

たぶん日々に変化が少なすぎるんだろうなぁ。

死を遠くするには変化を増やすしかないんだろうなぁ。

 

この時間の感覚というか、時間が過ぎるのが早いとか遅いとか、充実してたとか焦ってたとか、上手く使えたとかもっとこうすればよかったとか、そういう時間に関する理解とコントロールがもっと上手くいけば、きっともう少し人生に対する自己効力感が上がる気がする。

 

で、たぶんわたしは覚えが悪いので何事も人の数倍の時間がかかるけど、きっと最後にはできるようになるはずなんだよな、たぶん。

 

問題は、その自己効力感が出てきた頃に初めてあれこれできる!と考えてると、その時には手遅れになってることばかりそうなのでダメ、ということ。

 

もっと早くそうなりたくて、もっと早くそうわかりたくて、ただそれがどうしたらええか分からんねんなぁ、それが一番辛いんよなぁという話を相談室でもよくするし、大きな悩みの一つだなと思う。

 

永遠の鼻先にんじん状態というか、底なし沼にハマってていつか死ぬことを覚悟している感じに近いかなぁ。助からんな、これ、って諦めなきゃいけない感じに近いのかも。いや実際は助かりたいからいろいろ頑張ってるんだけれどもね。いまの感覚としてはまだまだ底なし沼に近い。

 

底なし沼というか、なんていうんだろうなぁ。

できないことがわかっていて、できるようになるまでに確実に時間がかかることもわかっていて、そしてその時間を短くすることが叶わない、ないしどうすれば短くできるか分からないままなす術がない、けど確実に少しずつそこに近付いてる、というのがいちばんしんどくて堪える、て感じ。

自己効力感ゼロ。ゼロ超えてマイナス。ゴジラ

 

うーん。底なし沼の比喩に近づければ、ゆっくりと首に手をかけられて、少しずつだけど確実に締め殺されていて、いつぐらいには死にそうだよなーとか考えてしまうだけの頭も残念ながらあって(これさえなければもう少し無知で幸せに生きられたよな、と思う)、そこまでわかっているのに自分では振りほどけない、振りほどくための手がそもそもないみたいな、そんな感覚。

 

うん、こっちの方がイメージに近いかも。

助けてクレーて感じが。

 

どうせなら死にかけていることにさえ気付かなければその方が幸せなんかもなーとか思わんこともない。

 

あ、というか、そもそも何を死と定義するかの話かもしれん。わたしが不幸とか死だと思ってることは、他人にとっては全然そうではないんだろうなと思う。

でもこの手の意見に対してはもう私の中では答えが出ていて、それをそうだと(不幸だと)思ってないこと自体が不幸なんじゃないの、というものである。

 

というのは、地元の人たちに対して強く思うことよ。だから地元を強烈に嫌って出てきたのである。

 

あそこで一生過ごすことを幸せだと思うことを、わたしは幸せだと思わない。

 

だいぶ調子乗りの偉ばりの、卓越主義ぽさマシマシな感じはするのだけど、一生苦しまずにいられるなら無知のままでええやん、何が悪いん?みたいなスタイルはかなり苦手なんだよなぁ。そうでもなければ、無理してでも地元から出てこようとは思わなかっただろうな。

 

中学までのやつはそもそも外に出ることもなく地元にいるままだったし、高校での人々は大学進学を機に外に出たものの結局地元で就職ルートが結構いたらしく、その事実自体に(必要もないしそんなこと思う権利もないととわかっているのだけど)かなり萎えてしまった。

 

地元の根は強い。思っているより強い。

悲しいことに、おそらく田舎であればあるほどそれは強力である。

その地元の根、があること自体は正でも負でもない、と思いたいところなんだけど。

 

でもやっぱり、ある人がどこに生まれたかによって、無意識のうちにその人が振る舞える範囲が決まってしまうのって、ややグロテスクだと思うんだよな。

もちろん、強制されているわけでもないから実はいつでもどこにでも出ていける(と気付けるし実行できる)わけで、わたしの↑の考え方には全然正当性も説得力もないよと言われたら譲らなければいけないところはある。

 

でも、なんやろ、なんか違和感があるんよなぁ…。

上手く言えないんだけど。わたしが地元嫌いすぎるだけなんかもしれんけど。

 

一番は、別に全く強制されてはないってところが恐ろしいんよな。田舎者はそれに気づけさえしないことと、いや強制されてないんやからやってないのは本人の責任やろ?とされてしまうあたりが。

 

上手く言えんなぁ。

地元の人たちを哀れだなーとか、救わなきゃとか思うわけじゃない。

でも、地方格差がー、みたいな話を見るたびに、「あなたたちは何を問題視してて、どこを目指してる? そこに前提とされてる格差の悪さって、何?」と思ってしまう。

 

結局、「十分な機会が与えられた場合には、もっと自発的に外に行く選択肢を取る/取れるだろう」という想定をしてるなら。無意識のうちに一生田舎に閉じ込められている人たちに対してなにか不正義を感じてるんじゃないんでしょうかね。

で、それってやっぱり「別に地元に一生いろって言われてるわけじゃないし、外に出ないことを選んだのは本人の責任じゃん笑」って言えないんじゃないのかな、と思う。強制力の有無の問題じゃないんだよな。

実際は全く強制されてないのに、無意識にそうなってるのが問題なのかな。そうなるとやっぱり当人の責任ではないよな。

 

 

ひえーもう分からん寝るおやすみなさい。

いつも眠いと田舎の悪口になってるな、やめないと。

なんというか安易に「✝️この人たちを救済(すく)いたい…✝️」とかになると、やばいので、本当に。カスのエリート主義というか。