ジカセイノプリン

memento morioka

13/n 研究オタク語り

 

 

 

以下長い。自分の研究のオタク語り。6000字くらい書いっちゃったので読むと時間が経っちゃいます。

 

 

 

そのうち自分のお(汚かも)研究内容のことも書きたいな、とずっと思っていた。個人的にはめちゃくちゃ楽しいと思ってやってるので。

…なんか読んでるうちにすごく壮大な物語を頭の中で描き始めててまずいのである。何でもそうだろうけど(私だけかもしれないが)、何かやってるうちに「純粋に楽しい!」という興味心が倒錯して「俺は今すごいことをやってるんだぞ!」と何か偉業をやっているかのような正当性や意義みたいなものに裏付けられようと執着してしまうあれである。

 

(そうならないように自戒もこめて定期的に言語化してキショさを自覚するという意図もある。)

 

 

 

さて、研究の話、細かく書くには原稿終わってからでないと無理そうだけれど、とりあえず簡単にだけ。まあ原稿に集中できてないので気分転換と頭の整理も兼ねて。

 

 

 

さっきの「壮大な物語」について。

まあざっくりいえば、本当にざっくり言えば、

 

「現代って自由主義リベラリズム)社会って言われるじゃないですか。パターナリズムはその自由主義を部分的に乗り越えて見せましょう!っていうクソデカプロジェクトなのである!!!!」

 

…みたいな、そんな大義が頭の中をさっきからチラついているのである。

 

恥ずかしながら自分の拙な理解を踏まえてちょっと詳しく言うと、

パターナリズムって、ジョン・ステュアート・ミルがその骨格を定式化して以降100年以上主流とされてきた自由主義を部分的に超えようとしてるプロジェクト」

みたいなところある気がするんだよね。

 

 

これすごくないですか、まあでもそのすごさがパターナリズムの面白さでもあり難しいところもあるのだけれど。

じゃあそれがどうやってそういう話が導かれるのかとか具体的な話はまた別で…というか原稿にするためにもっと詳細にかつ簡潔に記さないといけないのだけれど。実際ちょっと探してみたら「Mill versus Paternalism」なんて論文も出てきたから、まああながち間違いじゃないのかななんて、とも思う。まあこの論文の信憑性が定かではないのでわからんけど。

 

 

 

この興奮をできるだけ面白く、原稿終わったら書こうかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やっぱ無理!!!!!!!!!!!!!!!!!!

いま書きま-------す!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

うおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!

 

 

 

さて、わたくし今、某研究室でパターナリズムなるものについて研究(?)してます。

パターナリズムってなんぞやって感じなんだけど、すごく俗っぽく言えば

「おせっかい」

である。

 

 

…え?おせっかい?

そんなちゃちいの?

 

いえいえ、ではきつい言葉で書いてみましょうか。

ちゃんとした言葉を借りれば

 

「ある人(S)が、他者(A)に対して侵害を惹起する場合でなくても、S自身の利益のためになるという理由から、個人もしくは団体ー例えば国家ーが、Sに対して何からの介入行為を行なうことが正当化できるか。できるとすればいかなる条件の下でか。」

という問題である。

 

中村直美『パターナリズムの研究』p13(本当はこれもね、ちゃんと引用の書式があるからそれに沿って書かなきゃいけないんだ。でも今は元気がないのと日記やからまだ勘弁してくれ…という意図で、一旦略記)より。

 

 

 

 

あ、読み飛ばしましたね。お見通しですよ。

でも正直なところこれを研究対象にしてる私も何度この定式化を読み飛ばしたかわからないくらいややこしい書き方してると思う。

 

なのですごーく雑だけど、なんでこんな書き方をしなきゃいけないのか、何を想定しているのか理解を載せておこう。

 

 

要はこのややこしい定式化、もっと砕けた言い方をすれば、ある人が「他の誰にも迷惑かけてない」のに、その人のためになるからって介入される、その介入のことをパターナリズムっていうんだよね。

 

 

これでもややこしいね。具体例を出してみよう。

例えば

 

ケース1)親が子に、「歯を磨きなさい!」と言って面倒くさがる子供に強制的に歯を磨かせる。

 

…ここでいう「歯を磨かせる」ことは、親から子に対するパターナリズムであるとされる。

 

 

 

他には

 

ケース2)あなたは自動車に乗る時、シートベルトを締める義務がある。

それは法律でそう定められているから…もあるが、そこで止まらずにもう一歩踏み込んでみよう。なぜ法律はそんなふうに定めているのだろう?万が一事故が起きても、シートベルトを締めなかったことで損をする(シートベルトしてただろう時に比べて大怪我するとかね)だけなのだ。シートベルトをすると、「運転者の"ため"になるから」という理由で、運転者がシートベルトをするように国家が法を使って介入しているのである。

 

…長くなったが、ここでは「シートベルトの着用義務」が国家から個人にたいするパターナリズムと捉えられる。

 

 

 

これならさっきよりもちょっと「ぱたーなりずむ」が何を指しているのか伝わりやすくなっただろうか。そう願うばかりである。(なってないならまた別のよりよい例を探す旅に出るのみ。)

 

 

 

さて、それはそうとして、なぜこのパターナリズムが問題になるのか。こんな声が聞こえてきそうだ。

シートベルトとかも本人のためになるからいいじゃん。子供はほっといたら歯磨き嫌がってしないだろうけど、そうしたら大人になったころには歯がボロボロになっちゃう。親にはそれを防ぐ義務は当然あると思うんだけれど。

 

などなどなど。さて、じゃあ何がパターナリズムの問題なんだろうか。

 

ポイントは、現代社会の大きな主流である「自由主義」との擦り合わせにある。端的に言ってしまえば、自由主義パターナリズムは対立するのである。

 

 

あらま。大変。

でもそれってほんと?

 

ほんとかどうかも含めて、背景的なところをみてみよう。少し思想的ななとこに立ち返る。

これもまた、できるだけ勉強したことに基づいて書いているのだけれど、自分の理解不足もあるかもで、間違ってたら指摘をお願いしたいところなのだけれど…。(そうするにはより一層人に見せないといけないよね、と思ったあたりから、この日記公開プロジェクトが始まってるのはさておき。)

 

 

わたしたちが今生きているこの社会は往々にして、自由主義社会と言われる。

どこに行くのも誰といつ会うのも何を食べるのもどんな仕事に就くのも誰と結婚するのもしないのも、詰まるところ、

どんな生き方をするのも基本的には自由、

とされている。(もう今のところで「ん?」と思った人はいるだろう。まさに問題はそこなのである)

 

ただ、じゃあ何をしてもいいのか?となると、そうでないことはみんな知っているだろう。その「してはいけないこと」って何なのか、それらには何か共通点があるのか。

…どうだろう、何か思いつくだろうか。

 

例えば法で禁止されているもの(「してはいけないこと」)だと

殺人、窃盗、名誉棄損、違法ドラッグの使用、などなど。

みんなの道徳性とかによって意識的無意識的に守られたり守られなかったり、でもしないことが理想とされたりするものだと、

嘘をつくこと、とか、悪口を言うこと、困ってる人を見て見ぬふりすること…とかがあるだろうか。

 

 

さーて、これらに共通点はあるでしょうか!!!

 

 

…余計ややこしくなった気がする。

しかも意地悪なことにあえて共通点が出ない例外を入れている。

 

 

 

シンキングタイム!!!!!!!

飽きたら下へ行ってください↓

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…考えるの飽きた?

もう答え言っちゃいましょうか。

 

大まかに言えば、

他人に実害を与えているかどうか、

である。

 

この実害というのは、哲学の分野ではよく「危害」と言われるのだけれど、

この危害を他人に与えている行動はしちゃだめー、危害を与えないことなら基本的になんでもしてよいよ、

的なニュアンスが自由主義リベラリズム)の根本である。

 

さて、思想史に少し移ろう。改めて自由主義は、すごく雑な言い方をしてしまえば「他人に実害を与えない限り、個人は何してもいいですよ~」って感じ。これはジョン・ステュアート・ミルっていうおっさんがすごく簡潔な定式化を施したことで有名なのである。その定式化とは、以下のようなもの。

人類が、個人的にまたは集団的に、だれかの行動の自由に正当に干渉しうる唯一の目的は、自己防衛だということである。すなわち、文明社会の成員に対し、彼の意志に反して、正当に権力を行使しうる唯一の目的は、他者にたいする危害の防止である

 

これは「侵害原理 harm principle」とか、「他者危害原則」とか、彼の名前をとって「ミル原理」とか言われたりする。

要はこの原理から外れない限り、基本的にみんな「何するのも自由」ってことになってるんよね。

…でも、これだとさっき挙げた例にあてはまらないやつがあるよね。

 

 

そう例えば、大麻とか。

 

大麻って、吸ったら確実に自分に害があるけれど、でもだれかに迷惑かけてるわけじゃない。

そりゃ吸うことで錯乱して誰かを殴ったりしたら他人に対する危害になるし、保護者や友人知人はたまた医療従事者の皆々様に介抱されるという迷惑になるかもしれないし、いったん麻薬が流行すれば会ったこともないどこかの誰かにも大麻を吸う心理的ハードルが下がるという悪影響を与えることにつながるかもしれない。

 

しかしそれは、「危害」をどこまで捉えるかの問題である。大麻を吸った結果としての副次的な悪さ(人を殴ってしまうとか)はあるが、大麻を吸うという行為自体に純粋に発生するのは、その吸った本人の健康や自律を著しく損なう可能性がある、というものだけ。

つまり大麻が問題になるのは、大麻を吸うことで「吸った本人に対する危害」があるから、である。

 

だから大麻が禁止されているのは、本当に純粋に言えば、

他の誰にも迷惑かけないけど吸ったら「本人にとって不利益になる」だろうから、

という理由である。

 

 

 

 

はあ?

誰にも迷惑かけてないならやっていいんじゃん!

ミルのばか!嘘つき!だいっきらい!

 

 

 

 

…まあそういわずに、少し本題に立ち戻ろう。

 

 

 

 

ここで登場するのがパターナリズムである。(いよっ!!!!!!!!)

 

 

ん?なぜ?

その説明の前にパターナリズムってなんだったかの確認をしよう。

 

パターナリズムは、先述のように、次のように定式化されるのであった。

「ある人(S)が、他者(A)に対して侵害を惹起する場合でなくても、S自身の利益のためになるという理由から、個人もしくは団体ー例えば国家ーが、Sに対して何からの介入行為を行なうことが正当化できるか。できるとすればいかなる条件の下でか。」

 

これは言い換えれば次のようなことであった。

 

ある人が「他の誰にも迷惑かけてない」のに、その人のためになるからって介入される、その介入のことをパターナリズムという。

 

 

そう、ミルがその危害原理で端的に示した「誰かに危害を与える行為だけ制限してもいいよ」というとこにそぐわないのがこのパターナリズムなのである。

 

「ええ~!? 自由主義社会って、ミルの危害原理が根本にあるんじゃないの?それが守られないなら自由主義社会とか嘘じゃん!

パターナリズムとかあったら自由主義じゃなくなっちゃうじゃん!!!!!」

 

 

 

…というところに、まさにここに、パターナリズムの問題があるのである。

さっきの大麻の禁止法はまさにそう言う意味でパターナリズムの典型例と言えるだろう。

 

 

 

そう、つまりパターナリズムは、その定義や信念から根本的に、自由主義と対立する。でも現代は自由主義社会なのである。

さて、パターナリズムをどう認めるか、そもそも認められるのか? 認められるなら、一体どんなときに何が根拠になるのか?

 

そうじゃなくても、そもそもパターナリズムって必要なの? 必要ないんじゃないの?

必要かどうかもそうだけど、実際に今の自由主義社会において存在しているパターナリズム(さっきの大麻とか、シートベルトとかもそうだよね)はどんな風に正当化ができるんだろ?されてるんだろ?

 

 

 

 

…てとこが、パターナリズムの問題なわけなんだよね~~~。

うむうむ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…ああー!!!!!!!!!!!!!

やっと本題に入れた。

長い!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

 

これ原稿でどう書けばいいんだ。A子とB美に寸劇でもさせるか。

 

嘘です。

 

 

 

さてさてさて、もうみんな飽きてるかもだけれど私は全く飽きてないのでもう少しだけ最後まとめます。

ここまで来てやっと、最初のややこしい定式化をふりかえってみよう。

 

 

パターナリズムとは次のように定式化される(by 中村直美)

「ある人(S)が、他者(A)に対して侵害を惹起する場合でなくても、S自身の利益のためになるという理由から、個人もしくは団体ー例えば国家ーが、Sに対して何からの介入行為を行なうことが正当化できるか。できるとすればいかなる条件の下でか。」

 

 

 

冒頭の問いは、これってなんでこんなややこしい書き方をしてるかのか、というところだった。

そこで、ここまでみてきた自由主義の考え方もといミルの侵害原理を基本に、その答え合わせをしてみよう。

 

 

まずこの定式の「他者(A)に対して侵害を惹起する場合でなくても」の部分。

これはまさしくミルの侵害原理(誰かの行為を止めてもいいのは、その行為が誰かに危害を与える場合に限る)にそぐわない場合があるよ、という旨の言及だろう。

 

そして次の「S自身の利益のためになるという理由から」。ここは、侵害原理では正当化されないような介入が一体どんな理由で介入されるんですかいヘイヘイヘイ、という問いに対する端的な答えであるだろう。

 

そして最後の「個人もしくは団体ー例えば国家ーが、Sに対して何からの介入行為を行なうこと」は、介入の具体的な内容だよね。といってもほぼ特に対象を制限していないから何も言っていねえじゃねえかよい、みたいになりそうだねえ。

…ただ厳密に言えばこの定義も若干狭くはある。

なぜか。

Sが「ある人」と個人っぽく想定されているからだ。他の論者では、例えば国家による「集団に対する介入」(例えば国家によるある民族に対しての措置とかね)もパターナリズムにされてるから、ほんとに厳密な話をすると中村直美の定義も少しせまい。

 

 

あと、ほんまに最後の「正当化できるか。できるとすればいかなる条件の下でか。」。ここについても一言。

これもね、論者によっては問題含み problematic なんだよねえ。

例えばジェラルド・ドゥウォーキンっておっさんは、「正当化される介入」をパターナリズムと呼ぶ、正当化できなかったらそれはただの介入だよ~~~ん、と言ってしまうわけ。

でもその基準よりかは、介入を受けるまさにその本人の利益のためにっていう動機にだけスポットライト当てて話する方が(よく論文では「射程をしぼる」と言う、かっこいいね)、より論点が鮮明になる気がするのである。

 

ということで私や私が参考にしている人物は、正当化できるかどうかということ自体はをパターナリズムの構成条件にいれていない。問題はまさにその、正当化できるのか、できるのはどんなときなんですか、というところに問題があると考えられるからである。

 

この私が今回参考にしている人ってのが、ジョン・クライニッヒっておっさん。

この人はパターナリズムはこんな風にすれば自由主義と齟齬を起こしませんよ~という提案をすることで、パターナリズムの正当化を論じようとしている。あんまり詳しくまだ書けないけど、その提案というのが「人格の全一性 personal integrity」に訴えかけるものである。

 

今回の原稿ではこのおっさんをなんとか擁護して、パターナリズムの「自由主義を超える!」プロジェクトをなんとか少しでも実現させたいのである。

 

 

 

 

 

 

はー書けた。現実逃避終わり。楽しかった。めちゃくちゃ長くなっちゃった。

原稿できたら、またきれいに書き直そう。たぶん発表でもたくさん指摘をもらうだろうし。

 

 

 

 

うむうむ。こんな日があってもよい。

 

 

 

 

…よい………

 

 

 

 

 

 

 

よ、い………………はず……………………………。

 

 

 

つかれた~~~~、それでは寝る。

 

みんなも自由主義のなかであれやこれや疑って生きていこうね、なんて。

 

 

難しいですね。

 

 

でも、往往にして思うのは、倫理学は「よく生きるとは何か」てとこからやっぱり外れられないよな、てこと。

 

こんな風に周りからみれば「なんでこんなこと考えるんですか?」てことも、結局は

 

「良い社会ってどんな社会?」

「みんながより幸福に生きるには?」

「そもそもその『良い』とか『幸福』とかも、どういう条件が揃えばそういえるの?」

 

っていう、結局古代ギリシャ時代からたくさんのたくさんの人が考えてきた根源的な問題に帰っちゃうだろうな、と思う。

倫理学って今より良い生き方とか考え方とかそういうのに繋がるし、そういう欲求から発露するものなんじゃないかなぁとか、思わんでもなかったりする。

 

そんな感じ。

長くなった。現実逃避終わり。さーて原稿原稿。