ジカセイノプリン

memento morioka

8/6(日)、8/7(月) コメントに返答

昨日の夜に昨日の日記書いてたんだけど、「あ!コメントの返信…!」と思って書いてたら途中になっちゃってた。まず昨日の日記を書いてから、今日の日記へ。そのあとコメントに返します。今までのやつ全部は厳しいけど4つ返します。ちょっと多め。

 

(今、共用の廊下を誰かが全力でドタバタ走りやがった。許さん。足の小指をぶつけなさい。)

 

8/6(日)

昨日の夜、寝る前に今朝のスケジュールを立てたものの全部寝過ごした。最悪。

といっても全部私用だから誰かに迷惑かけたわけではないのだけれど、でもじゃあ自分との約束なら守らなくても…とはなりたくない。自律自律。

 

起きた時点でかなり遅かったので、時間通りに黙祷ができなかった。遅めだが、1分黙祷する。

 

 

最近睡眠の質が良くなさすぎるな。

朝起きた段階でぐったり、そのままずっと日中は夏バテ。

夜になって初めて動けて、今日こそは早寝しよう!と思ってもいつのまにか2時に。

 

…。

 

今日は入浴剤も買ったし、ちゃんとお風呂入ろう。

あと今日は失敗したけど、明日からは携帯の画面見る時間も減らす。本読もう。

ちゃんと勉強しないと。夏休みの予定を立てよう。

 

あと、院試前はあれだけ行きたかったやりたかった事が、院試終わっていざ時間ができたら途端にしたくなくなった。こういうところがよくないのだ。

結局あれらの欲求は現実逃避のものでしかなかったんだろう。

 

とはいえ、今日もチャリを掃除して、お風呂の防カビ燻煙剤を焚いて、生活用品や昨日言うてた浄水器も買ったし、一応研究室にもきて、少し本を読んだ。あとSpotifyのお気に入り曲も整理したし、写真もだいぶ捨てた。5000枚は捨てた。かなり軽くなった…気がする。

 

そのあと某goyaに行ってタコライスを食べた。救われた。明日は某カンフォーラにでもいきたい。

 

 

ほんとは今日某キルフェボンに行きたかったのだけれど、仕方なし。別日に叶えよう。

帰宅。

 

 

8/7(月)

そういえば今日の夜は、最近巷で話題のポケモンスリープというアプリを携帯に入れてみた。

いわゆる睡眠計測をしてくれるアプリのようなのだが、通り一辺倒の遊び心のないその他のアプリとは異なって、ポケモンスリープは自分の睡眠が良いとポケモンたちのいい寝顔が見れ、逆にプレイヤーがカスみたいな睡眠習慣をとるとアプリ内のポケモンが睡眠不足でやつれてかわいそうになる、という正と負の両方のサンクション(動機づけ)を用意しており、非常に睡眠改善に効果があるという。

 

試しに入れてみたのだけど、まあまあよさそう。ポケモンは可愛いし、ゆっくり寝る動機になるし、あと睡眠導入音楽もかけられる。良さそう。続けてみよう。

 

…と思ったら昼間だんだんやつれていくピカチュウをみて悲しくなった。

日中だんだん疲れていくのは仕様で、だからこそ夜にちゃんと寝てあげて回復させてあげましょうね!というゲーム側の趣旨なのだけど、やつれた顔してるピカチュウゼニガメはこう…心にクるものがある。

 

今日あさから買い物して、産婦人科に定期検診行って異常なしで、そのあと友人と某ひらがな館っていう定食屋でごはんたべて、研究室戻って少しパソコン直して、直らなかったので某生協にて見てもらって、明日修理に出すことにして、図書館に本返して借りて、研究室戻ってごはんたべて、先輩らとちょっと話して帰った。

ねむ。

 

 

 

○コメントに返信!

お待たせしましたしました。コメントいただいたのに返信遅くなってごめんなさい。ありがとうございます。

またぜひにいつでもなんでもコメントください。

 

 

 

 

コメントごとに紹介と返信していきますね。

①クソムカつくことがあったときの対処法

→これだけは前に返信した気がする!ムカつきの原因が人に責任を問えるものか、それとも誰にも文句つけられないようなものかで対応変えた方が良いという話をした気がします…!

 

 

 

②文系の研究なにやってるのか見えて面白い

→これめちゃくちゃうれしかったです。ありがとうございます。確かに、私も文系の大学院志すまで「何やってんの?」て感じでしたし、大学外の方から見ればそれは尚更だと思います。理系の科学技術の発明とか、文系でも法曹を目指す人や心理学士とかならまだ分かりやすいもんだと思います。何が新しい技術を作ったり、その道の実用のエキスパートになったり、と。

 

そうじゃないいわゆる「文学部」まわりの勉強って

つまりは「本読んで、文書いて、本読んで…」

って、え?、既存のものばっかり見て、一体何が新しいことできるようになるの?

それがなんの役に立つの?

なんか実用的な技術の専門家になるわけでもないんだよね?

 

となりそうですし、実際私はそう思っていました。

このコメントもらった時もたしか、ミルの本を読んでミル、スゲーーー!!!!て書いた時にもらったもので、確かに「すでにある本を読んだ感想」なので新しいものは生まれていないように思われます。

 

これもうちょっと時間とって書きたいな。実はそうじゃないんだよね、ということを書きます。明日!

 

 

 

③思想は自由だが、実行に対する規範があればそれに制限される。世界は「その時に正しい(正しそうな)考え」に適合していくもので、人間の考えが変わるのを待ってはくれなさそう。

→めちゃくちゃいいコメントだなぁ。面白い。これは確かこのまえ「Pluralism」のタイトルで書いた時の日記にもらえとコメント。現代は日々すごい速さでどんどん規範や道徳が変わっていくけど、それに私たちの価値観の変化はついていける?ついていけないとしたらサポートが必要?そもそも変化させることは可能?変化させられなかった時に責任を問える?みたいな話だった。

今思えばこの話もめちゃくちゃ政治哲学に近い話かも。

コメントに関して、思っていいけどやるのはダメ、というのは確かに。と感じた。でもじゃあ「ダメ」の基準ってどこにあるのかな、と思う。ミルに言わせれば「他人に迷惑かけてるかどうか」だろうし、例えば他の人…に言わせれば「みんなの道徳に背かないもの」となることもある。びっくりすることに後者はいたわけだし、後者に従えば「同性婚は家族の絆のような社会共通の道徳を破壊するからだめだ」みたいなものもあったわけで。

今は後者おかしいやろ、と、おかしくないやろ、が対立してる時だけど、じゃあ何がその「おかしさ」「おかしくなさ」をもっともらしく説明できるのだろう?

結局突き詰めれば「わたしが直観としてそう思うだけ」にあれこれ理由を付け足していっているだけの様に思える時もある。だからこういう論争が全部自語りに見える時もある。

 

うーん、何が言いたかったんだっけ。まとまらなくなってきたんだけど、すごく考えさせられてありがたいコメントでした。

 

 

④価値観変えられるかについて私(書いてる私?)はどう思うか。また、価値観が違う人とは距離を置きたいが難しいこともある。

→私自身の考えを書くと、私はかなり無理やり変えてきた方なので率直に「変えられる」と思います。が、実際どう変えるかというとめちゃくちゃしんどいので

以下が変える手順。たとえば「インドア派からアウトドア派になりたい」とします(私はこういう趣味レベルでも「なるべき像」を描きすぎてしまう悪癖があり、実際これは良くないと思っています。趣味レベルの価値観にこっちの方が良いとか優れているという規範はないと思っていますので、以下の私の考え方はあんまり参考にしない方がいいと思います)。

 

→のあとは↑のアウトドア派になりたい…の具体例にそって書きます。

①まず変わりたい先の自分、なりたい結果、持ちたい価値観を思い浮かべる。

→アウトドア派になりたい!自然の中でヘルシーに運動して、美味しいご飯を食べて、心も体も健康的…。

②当然既に持っている価値観に縛られて、なりたい側のデメリットが見える。

→外で食べるご飯は別に美味しくなさそう、疲れそう、そういうのは陽キャがやってそうで嫌(理由が最悪)、お金がかかる。家でいる方が楽だしお金もかからないし最高、いつでも眠れるし。

 

③ここが一番最悪にしんどいステップ。既に持ってる価値観を保持するより、捨てる方が楽だと感じるほどにまで、自分を責め追い詰める。

→自然に触れる楽しさを評価できない自分は愚かである、積極的に知らない世界に飛び込んで行けない自分はこの先どこにもいけず何も知ることはできず小さくうずくまるだけだろう、引きこもりは健康にも悪いし鬱になる…。

 

④今の考えや価値観を捨てないと苦しすぎるので結果として変わる。

→アウトドアだ〜いすき!❤️

 

 

ね、最悪でしょう。

正直こういう変え方だと、実際どちらの価値観が良いかよりも先に「こっちの方がいいはず、だから変えよう」があって、どちらが正しいか決め打ちしている感がある。ここがまずよくない。

そもそも、趣味レベルの価値観に優劣をつけ、自分を変えるためであっても一方をボロカスに叩くべきではない。実際にその趣味を持っている人に失礼。

あと、そこまで自分を追い詰めすぎるのがシンプルによくない。

 

などなど。

ただ、ここまでしないといけないと思い込んでいた時期が私にはあって、それはいろんな理由がありました。それはまた別の機会に…。

 

そして後半の、価値観の違う人と離れられたら楽だけど、いつもそうは言ってられないよね…という箇所。めちゃくちゃわかるなあという気持ちでした。

どうやら世間ではそういう人ともうまく付き合っていく能力を社交性だとか、世渡り力だとか言うきらいがある様な気がしますが、わたしはこれ嫌いです。

もちろん、違う価値観を尊重し合えればいいので、本質的には価値観のちがう人といることが問題ではなく、価値観の違うその相手が自分の考えを尊重してくれないような人間である時にしんどくなるのかなと思いました。できれば何を言われようと「このひとはそう思うのか」というところでとどめ、「私を否定しようとしているんだ」と思うところにまでは踏み込まない様にすればかなり楽なのかな?とも思います…難しいですが。

あまりにも自分を否定してくる人間は引っ叩きたくなりますし、そんなふうに人を否定する人間が肯定される理由全くありませんので、こちらもそれ相応の反応をする正当性はある、と正直思います。

でも、それがやっぱりできないところで、人間は社会的動物だとはよく言ったものだなぁと思います。

 

まあ逆に言えばズケズケと他人の価値観を無碍にしてくる人間は非社会的な存在と言えるでしょう。動物というか獣です、獣。わざわざ同じ様にこちらも否定しにいくようなことに手を染めなくてはいいけど、尊重はしなくて良いと思ってます。

 

 

うー長くなりました。ねます。おやすみなさい。